木々や花、流れる川や移りゆく空に耳を傾けたり声を掛けたりしていると、自分の中に流れている美しい流れに気づいて、ハッとさせられることがあった。
一体、その美しい流れはどこに続いているのだろう。
そんな好奇心がむくむくと湧き上がり、私は会社を辞めた。
久々に出会えた、ミヒャエル・エンデ作のモモという本にも背中を押してもらった。
自分の心に沿って、流れていく景色はどんなものかワクワクしていたけれど、なんでだろう?
その景色の中には、灰色の男達がウロウロしている。
モモに描かれている世界は、ファンタジーなどではなく、現実社会へ向けられた、残酷なくらい冷静なミヒャエル・エンデの「視点」だ。
人間として生まれたけれど、次の選択肢であったであろう、男か女かという選択肢が無かった、もしくは未選択だった私は、根無し草のように絶えずゆらめきながら生きていた。
小学生の時にこの本に出会って、人間がはっきりとマイノリティーとマジョリティーに分けられていることを知った。
マイノリティーでありたいという選択は、何者であるか分からずに生きてきた私にとって、都合が良く、魅力的な選択だった。
マイノリティーであるモモという存在が、とてつもなくかっこよく見えたせいもある。
しかし、一方で、時間を節約することによって大切なものを失っていくマジョリティー=一般市民の描写に、自分を重ね合わさずにもいられなかった。
本が出版されて、半世紀近く経った。
あれから世界は大きく変わって、ありとあらゆることが発展して進歩した。
人間はとても賢くなったけれど、マイノリティーとマジョリティーのコントラストは今も昔も変わらずにくっきりとしているし、いまだにお金と引き換えにして、時間の流れを止めようとしている。
流れているからこそ輝く時間達を、人間の都合でせき止めて切ったり、貼ったり‥
死んでしまった時間のコラージュを次から次へ作っている。
灰色の男達を悪者にすることは簡単だ。
しかし、彼らを生み出しているのは、時間を支配できると勘違いしている私たちの心であることを、忘れてはならないと思う。
先日、30年近くはき続けている、おじいちゃんのようなデニムを大修理した。
ウエストをつめたり、破れた部分を補修したり‥
デニムというアイテムに特別な思い入れが無いので、とても不条理な気持ちを抱えながら、何日もミシンへ向き合った。
費やした時間に正当な価値を与えてほしいと、つい願ってしまう。
しかし、その価値へ対する基準や判断は一体どこから生まれ、誰が与えてくれるのだろうか?
小学生の時に途中でモモを読むのをやめてしまった。
きっと、子供の私は絶望したくなくて、途中で本を閉じたんだと思う。
モモのように孤独にもなれず、強くも優しくもない自分に。
モモはマイノリティーとして見られていたけれど、彼女はマイノリティーという枠に決して自分をはめることは無かった。
だから、孤独に生きていても、誰も恨まず、マジョリティーのために立ち上がる勇気を持てたんだと思う。
世界を救うヒーローやヒロインを気取りたいわけではない。
「人のことなんて知ったこっちゃない」そう思う私もいる。
だけど、心の中に流れている美しい時間にのるたびに、私は何が現実で、何が真実なのか分からなくなって、叫びたくなってしまう。
それが怒りなのか、喜びなのか、悲しみなのかすらも分からないまま‥
マイノリティーとマジョリティー
フィクションとファンタジー
女と男
生と死
境界線の上を歩いてなんの得になるだろう?
せいぜい、世界中から後ろ指をさされて、笑いものになるだけだ
だけど、どうしてだろう
ここから眺める景色はとても美しい
今年はこの修理したデニムの出番が多い。
はいていると、やたらと褒めていただくのでヘビロテしてしまった。
不思議とこのデニムを履いていると灰色の男達を見かけない。
何故だろう?
ボロボロだから??
おしえて! カシオペイア