子供達がそれぞれ旅に出かける。
タオさんは友達の住んでいる名古屋へ、キコさんとマルちゃんは祖母のいる鳥取へ。
大人が付き添わない旅だというのに、みんなあっけらかんと家を出ていった。
がらんとした我が家で昼ご飯の弁当を頂く。寂しさは当然なく、あるのは心地よい静けさのみ。
午後は久しぶりに集中して自分自身の仕事をした。春休みも重なって、完全に子供達のペースに飲み込まれてしまっていた。
仕事を終えて、めぐさんを迎えにいく。
二人で久しぶりの映画館へ。ビール片手にポテチをいただきながら「EVERYTHING EVERYWHERE ALL AT ONCE」を観る。
中年夫婦の危機、老人介護、障害、LGBTQ‥
渡る世間は鬼ばかりとカンフーとSFの合体作。語彙力乏しいけどそんな印象。
人それぞれのユニバースがあり、並行して無数の今を与えるマルチバースがある。
妄想によって、私という存在は分岐・増殖していく。あるいは、別に存在する今を実感する。
無意識から引き出される妄想は狂気と見做される。
そんな乾いた世界にうんざりして、たった二つしか許されていない希望の目すら閉じてしまいそうになる。
私という存在すらままならない世界で、私の可能性を感じることって本当に過酷だ。
しかし、ディルドをあそこへ突っ込まずとも、私の中に並行して存在する無数のユニバースにアクセスすることは出来る。
帰着が母であり、台所であり、大地であった。
戦いではなく、受容れることが大切なのよね‥