家の主たる採光は東の窓だから、朝は家中が眩しい。
ダイニングテーブルや花びらが枯れかけているチューリップ、出しっぱなしのままの鉛筆やパソコンも全てキラキラしている。
昨日、久々に再会した友が「WBCなんぞにフォーカスしているから大切なことが見えないんだ。」とぼやいていた。
私たち自身が時と場所によって、太陽や月のように光があまねく存在になる。
しかし、期待や不安や執着という雲海で溺れている時は、自らの光をどこへ向けようかと必死に模索している。
外へ光を向けようとすればするほど自分自身の光は小さく限定されてしまって、スポットライトのようにしかにしかならない。
しかし、私自身へ光を集中させることによって、その光は全方位へ広がり届いていく。
そうして、自分自身が作り出す陰影によって何かが現れて何が消失していく。それが私の現実世界の風景になっていく。
その事実のみに、いつも寄り添っていたいと思う。
朝ごはんはお粥とたくあんと梅干し。食後にカフェオレと甘納豆。
子供達がそれぞれ小さな旅に出掛ける。初めて、私たち大人が付き添わない旅にそわそわしている。私もそわそわしているぞ。
新幹線のチケットの学割証明書を取りに行ったりお土産を用意したり。
お昼ご飯は、昨日のたこ焼きで余ったタコを入れた焼きそば。
午後は最寄りのJRの駅へチケットを買いに行った。
川沿いをひたすら歩く。たくさんの人々が満開の桜を楽しんでいる。
私もベンチへ座って春特有の風を感じる。いてもたってもいられなくなるような、爽やかだけど駆り立てられるような風。
毎年、春はやってくるのに、何故こんなに心を動かされるのだろう。
春の風よ、今度はどこへ私を運んでくれるのだ。
こんなふうにして風や空や川とおしゃべりしていると、現実というプラグが外れかかってくる。
きこさんからの帰ってきてコールで、現実でやらねばならないことがあることに気づく。
いそいそ帰宅してお風呂を沸かして、ご飯の支度をしたり。
夕ごはんは豚汁とブロッコリーの胡麻和え。
日記は日々の光の記録。
今日という一日の中で何に期待や執着をして、何を喜んだり不安を感じて、何を手放したのか。
その日々の陰影が二度と訪れることのないものなんだと、書き記してようやく気づく。
とても大切なことなのに、私は毎日忘れて、毎日
だから、きっと世界は美しいんだな。