一人起きて祈りの時間を過ごす。
私は特定の宗教への信仰を持たないし、仏陀やイエス・キリストといった神々を拠り所にすることもない。
しかし、私の生活の中には食べることや眠ることと共に祈る時間が存在している。
何の為に祈っているのだろうと、自分でも不思議に思うことがある。
無意識に現れてくる人やモノや場所、出来事、記憶、感情に対して、短い挨拶を交わしていく。私の祈りは、ただそれだけ。
しかし、その祈りを捧げることによって私は一歩一歩前に進み、流れに沿っていくことが出来る。
大いなる流れはどんなに小さき者に対しても、それぞれの自由意志を尊ぶ。そして、私たちには常に選択が与えられている。
「流れにのるか、否か」というシンプルな選択を。
軽く朝ごはんをいただいて、お昼のお弁当作り。
友人が遊びに来るから少し気合いを入れるつもりだったのに、結局、家にある食材と相談しながらいつも通りのお弁当を作った。
卵焼きや青菜の胡麻和え、豚肉の味噌炒め。
季節感のないお弁当になってしまったけど、今が旬の柑橘達やよもぎのお餅、そしてカレンデュラの美しいお茶に助けてもらった。
夕ごはんはカレードリア、もやしとワカメのナムル、ワカメと豆腐のお味噌汁。
何故か分からないけど、生ワカメは子供達の大好物。
夕ごはんを済ませて、友人と外で会う。
必要な時以外は連絡を取らないので、定期的に会う人はどんどん減っていった。
寂しく思ったこともあったけれど、それ以上にすっきりした気持ちでいられるので、今でも誰かとワイワイしたいという気持ちはそんなに持ち合わせていない。それよりも、常に流れていることを選択していたいと切に願っている。
今、出会えている人やモノや場所はどれも私の真実の延長線上にあり、とても近く感じる。
嬉しいことや悲しいことや苦しいことも流れてさえいれば、コロコロと転じていつの間にか消えていってしまう。
何気ないひとつひとつを、きちんと噛み砕いて、ゆっくり味わって、血や肉とし、排泄する。
その排泄物が少しでも美しくあるように、今日も祈りを捧げよう。